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文久3年8月21日(1863年10月3日)
【長】長州激派、幕府使番中根一之丞を暗殺
【兵】七卿、兵庫到着。義挙の檄を飛ばす
【京】壬生浪士、市中見廻りに任ぜられる/
会桑・壬生浪士、桂小五郎追放に出動?

■長州訊問使・中根一之丞暗殺
【長】文久3年8月21日、幕府使番中根一之丞が東帰の船上で殺害されました

おさらい
幕府は、7月9日、長州に外国船打ち払いを改めて厳命すると(こちら)、15日、外国船攻撃及び小倉藩侵攻を詰問するため、訊問使中根一之丞をを長州に派遣した(こちら)。24日、一行の船が(朝陽丸)が下関に入ると、長州藩(奇兵隊)は一行の船幕艦と知りながら砲撃し、乗り込んで一行10名を威嚇した(こちら)。さらに26日には、先の攘夷戦争で撃沈された藩の軍艦の代わりにと称して朝陽丸の借用を強要した(こちら)。船を乗っ取られた訊問使一行は陸路、応接場所の小郡に向かった。7月29日、中根は幕府の訊問書を提出し(こちら)、8月4日、長州藩の答弁書を受領したが(こちら)、朝陽丸が乗っ取られたままで、小郡から動けなかった。19日夜、旅宿に滞在中の一行が襲撃され、小人目付鈴木八五郎や従者が殺害され鈴木は梟首された(こちら)。中根は、朝陽丸の回航を待たずに出発することとし、20夜、長州藩の調達した船に乗って東帰の途についたが、刺客は海上の中根を追跡し、船に乗り込んで殺害した

<ヒロ>
帰路の船まで追いかけ、逃げ場のない船上で殺すなんて・・・執拗すぎます。うぅ。

関連:◆2/8(3.15)【京】長州処分:参豫諸侯、総裁職・老中と長州処分を議す/近衛前関白らとも議し、長州支藩及び家老の大坂召喚及び訊問(うち1条が朝陽丸拘留と中根ら殺害)
参考:『修訂防長回天史』(四上)p536(2004.10.31)

■政変後
【兵庫】文久3年8月21日、都落ちした七卿(三条実美、三条西季知、東久世道禧、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼徳、沢宣嘉)や長州藩士ら一行は兵庫に到着しました。彼らは湊川の楠正成の墓前に会し、そこで七卿は連署して「西国の有志」へ義挙を起すべく長州に集まるようにとの激を草しました(「中興之大業向成之所、奸賊狂妄奉悩宸襟候事、不堪憤激、一同西国へ罷下挙義兵候。順逆者顕然に付、有志之者一旦長州へ馳集候様可致」)。

同日、因幡藩主池田慶徳は、留守居役河田左久馬を長州藩留守居役益田右衛門介に遣わしました。使者の趣は「折角是迄勤王攘夷の儀被仰合何も御依頼被成候處、長州には此度不慮の御様子とは乍申難面お引取被成候儀は如何に候哉。乍此上於正義は何処迄も御相談致し度」というものだったそうです。

また、有栖川宮が益田に書を認めました。(長文なので時間ぎれ・・・)

同日夜、一行は長州へ向かうため乗船しました。しかし、益田・中村九郎・桂小五郎・久坂玄瑞・来島又兵衛・佐々木男也・寺島忠三郎ら10数名は京阪に留まり、情勢を窺うことになりました。

関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変
参考:『修訂防長回天史』(四上)p534

■浪士組
文久3年8月21日、壬生浪士に市中見廻りが命じられました。

「松平肥後守(=容保)御預浪士、市中昼夜共見廻り候様、肥後守殿より仰せ付けられ候条、心得の為持場限り相達し置き候様致すべき事」(『京都町触集成』読み下しbyヒロ)

<ヒロ>
壬生浪士はそもそも、攘夷の先鋒として活動するはずの集団でしたが、8.18の政変を経て、守護職指揮下の市中見廻組織としての性格付けが公的になったことになります。なお、新選組幹部だった永倉新八の回顧録には「八月廿一日 天朝より新選組に市中取締仰せ付けられ、もし手に余り候節は切り捨て御免。よって壬生旅宿へ呼び出し右の段申す」とありますが、朝廷が新選組に市中取締を命じたというのは指揮系統から見て疑問があります。


同日、長州藩士桂小五郎ら数名を退京させるため、会桑及び壬生浪士が出動し、即死が4〜5人でたそうです。(「島田魁日記」)

<ヒロ>
会桑・・・というのは、後年の守護職・所司代コンビです。島田魁日記は「日記」とはいうものの、実は回想録なのに注意が必要です。桂小五郎を退京させるということがあったのでしょうか??。

参考:『新選組戦場日記(浪士文久報国記事)』(PHP)、『新選組史料集』収録の関連史料(2000.10.3)

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